お父様は、今にも倒れそうになりながら、書斎のガラス戸に手をついていた。埃一つつ
いていないガラスの滑らかな面には、それとわかるくらいに手の跡がくっきりと残った。
それは、数あるお父様の嫌がることの中の些細な一つだったが、気にした様子もなく続
ける。
「お前を愛している。だから、出ていかないでくれ」
私は、驚きを隠せなかった。今までそんな言葉を聞いたことはなかった。誰の口からも。
でもそれは今、私に向けられている。
「今までしたこと全て間違いだったと言い切れるほど、私は強い人間ではない。しかし、
それを認めなくてはならない時が来ているのかもしれない。もう一度だけ言う。もう二度
と、誰にも言うことはないと思っていた。私は……お前を愛しているんだ」
「お父様……」
出ていかないでくれと懇願する、目の前の人は誰なんだろう?
私のお父様だ。少し前までは、そうではなかった。どこの誰とも知れぬ誰かに生を受け、
そして今まで生きてきたのだと、ずっと思っていた。
でも、私の足は今確かにこの地に着き、何者かになれた気さえする。
「お父様……ありがとうございます」
心からのお礼を私は口にして、それから、謝らなければならなかった。
「でも、私は行かなければならないんです」
それはもう、決まったことだった。クリスさんの元へ帰らなければならない。居場所は
そこにしかないと思っていたから。
でも、私にはもう一つ帰る場所ができた。ここに。お父様の元に。
「本当に、ありがとうございます。私のために涙を流してくれて」
――そう、お父様は、泣いていた。その瞳に映る感情は、今まで見てきたお父様のどん
な感情よりも、私の心を揺さぶらずにはいられなかった。
怯え、哀願、そして、ひとかけの愛情さえ。
「でも私は行かなければならないんです。いつか、ここに戻ってくることもあるでしょう。
その時は話をさせてください。お母様のことや、お父様のことを……」
「お前もなのか?」
私の言葉を遮るように発せられたその声に、また別の感情が混じった。
ぞっとするほど弱々しく、お父様には似つかわしくないとさえ思える。でもそれこ
そが真実の姿だと、唐突に感じた。
「……お父様?」
「お前も同じなんだな。エスクもそうだった。お前はあの女の娘だ」
「お父様。それは違います。私はお父様のことを捨てたりはしません。いつかここに
……」
「同じだ」
それは、酷くお父様らしい言い方だった。
「……同じだ」
ああ……お父様は、本当にその人を愛していたんだ。お母様、と心の中で思うこと
はできない。会ったこともなければ、その名前も今までずっと知らなかった。
なにより、お父様の心に残り続け、そして責め続けている一人の女性のことを、
私は心から憎んだ。
「……違います。本当に、違います」
お父様の足が、ゆっくりと前へと踏み出された。私はそれと同じだけ後ろに下がる。
その先には開いたドアがあり、逃げだそうと思えば、逃げられた。
「逃げるな」
その声はゆったりとしていて、まるでソファーの上でくつろいでいる時のように、
穏やかでさえあった。
しかしその顔は苦痛に歪み、いつものお父様の片鱗さえ残していない。
「……逃げません。お父様」
もう一歩、お父様は私に近づく。でも私は、今度は動かなかった。
「……リセルシア」
ゆっくりと、その手が伸ばされる。私達の距離は、もうすでに近すぎた。
ゆっくりと――まるでブリキの人形のようにぎこちない動作で、お父様は私の頬に
触れた。多分、私も泣いていたのだろう。お父様は指についた私の涙を不思議そうに
眺め、そして笑った。
「お父様」
私はあるだけの愛情を込めて、もう一度私の本当の父親に呼びかけた。その大きく
て固い手が、頬からそっと下に降りていく。このまま抱きしめられるのかと思ったが
それは私の首の辺りで止まった。
「リセルシア」
「……はい」
「私は……お前を……」
ゆっくりと、その手に力が込められる。抵抗することは……できなかった。もし、
この手を払いのけてしまったら、私は二度と、お父様とわかり合うことはできない。
すぐ後ろにある扉から、走り去ることも考えられない。
――力はゆっくりと、しかし確実にその強さを増す。喉からうめき声が漏れた気が
したが、痛みがそれに勝り、私はそのうめき声がどちらの口からこぼれたのかもわか
らなかった。
「……リセルシア」
お父様は、何度も私の名前を呼んだ。そして、同じ数だけ、ここにはいないある女
性の名前を呟く。
私は全てを受け入れた。
そして、なにかが壊れた

|